高校を卒業した時、私は教員免許の取れる教育学部への進学を選んだ。
当時熱中していた吹奏楽部の活動に、顧問として一生関わりたいと考えたからだ。
高校卒業から10年以上たち、期せずして私は吹奏楽部の顧問になった。
私の人生において吹奏楽部というのは特別な存在だった。
まだ世の中を知らない中学生の小さな世界の中で、吹奏楽というものは、新しく、大人で、広い世界に繋がっていると感じさせる何かがあったのだと思う。
中高の私にとって、吹奏楽部での活動とはコンクール上位大会進出を目指す活動を意味した。
決して強豪校ではなかったが、強豪校でなかったからこそ、自らを練磨し、他校と競い、評価され、上位大会に進出することに強烈に憧れていた。
私にとって、部活動とは本気であるということの象徴だった。
部活を引退してから長らく、あれほど混じりっけなく本気になれた時間はなかったと思ってきた。
ただ、私にとっての本気は、「勝ちにこだわる」ということであって、また、「勝てないことを悔しがる」ということとセットであった。
大人になる中で、「勝ち」でない部分にも本気が宿りうること、「勝ちでない」ことにも価値が宿りうることに気づいたが、その頃には吹奏楽から距離をおいて随分経っていた。
今回、吹奏楽部の顧問、指揮者という形で吹奏楽部と子どもたちに関わり、自分の中高時代とはまた違ったコンクールの側面が見えたように感じた。
銀賞の結果発表を聞いて引退する三年生の涙を見ながら、最初に出てきた私の感想は「こういう涙もあったんだな」だった。
悔しい、だけでない、悲しい、だけでない、ここから離れていくことへの寂しさからくる涙。
愛着ある人達への想いから溢れてくる涙。
もちろん、彼らの感情の全てはわからないし、色々な感情が混ざりあった中での涙だっただろうと思うから、その真意のほどは彼ら自身にしか分からない。
それでも、私が中高時代に感じた「悔しさ」以外の感情が、きちんと宿っている涙だと思った。
私は「狂」という漢字が好きだ。
行き切った本気には、狂気が宿るのではないかと思っている。
他者にそれを強要することはないけれど、自分自身は、狂うくらいに熱中できる何かを、ずっと求めている。
それに人生最上の価値を置いていると言っても良い。
でも、昨日私が眼にした涙は、それとはまた違った価値をはらんでいる気がした。
それは、私という人間が変わったからなのか、彼らの過ごしてきた時間が私と異なるからなのか分からないが、ほんの少しだけ自分の"最上"にほかの色が付いた。
これはなんと呼ぶのだろう。
もとから自分の中にあったもののようにも思うし、新しく見つけたなにかであるような気もする。
まだこれを消化するには時間がかかると思う。
吹奏楽部の捉え直しに10年かかった。
長かったが、意味のある10年だったんだと思う。
この夏を、彼らとの時間を、また時間をかけて少しずつ丁寧に味わいたい。
3年生のみんな、1、2年生のみんな、お疲れ様でした。
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