深く潜る練習

佐藤公彦のblog

異文化の目・世界の解像度 コソボ・セルビアにて

【日記を見返していたら学生時代に書いた文章が出てきたので転載】

2014/09/22
コソボに来て3週間。思うところがあり友人にメッセージを送った。

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こんばんは。今夜は月が綺麗です。そちらはどうですか?

こちらに来てからしばらく経ち、もうすぐ帰国も近づいていますが、こちらの環境について、ことあるごとに「何だ日本とそう変わらないな」と思うことが多くあります。それはこの国に限ったことでなく、Vietnamに行った時もMalaysiaに行った時も同じように感じました。特に「都市」という点において海外も日本も同じような環境を持っていると感じています。
しかし、このことはあまり良いことでないように思います。アメリカに初めて行ってそう感じた時には「なんだ、自分が海外に過剰な期待をしていていて、そう違わない現実をきちんと認識しただけなのではないか」と感じたものですが、CambodiaでもKosovoでもこのように感じるのは「Cambodia、Kosovoの都市環境が日本と同じ」ということ以上に「私がCambodia、Kosovoの文化・生活の差をきちんと認識できていないだけなのではないか」と思うようになったためです。

これはとても悲しく思います。文化の差を認識できないということは異文化理解・多文化共生のファーストステップがきちんと踏めていないということだと感じるからです。
例えば海外で仕事をしたり、外国人の奥さんと国際結婚をしたりした時に、「彼/彼女は私と同じだ(同じ価値観/同じ人生のバックグラウンドを持っている)。だから理解し合えるはずだ(彼もこれを気に入るはずだ/彼女にとってはこれが幸せなはずだ)」という価値観の押し付けをしてしまいかねません。

こちらで今一緒にインターンをしている友人に少しその話をしたところ、「それは見た目の違いだけに着目して、自分の見る目が日本人のままだからではないか」というようなことを言われました。つまり「旅行者感覚お客さま感覚」で、現地に溶け込もうというスタンスがないから、環境が同じに見えるのではないか、という意見です。これはなかなか腑に落ちました。
また、私が「コソボの道路は汚い(だがしかしそれは本質的な文化の差を形成してはいない)」「Vietnamには屋台が多い(しかしそれは重大な差ではない)」と考えている時、「○○は(異)文化の本質ではない。○○はこの国の文化にとって重要な意味を持っているわけではない」と、「自分(自国)の基準」でものごとの価値を判断してしまっているのではないかと思いました。これは無自覚な”認識の取捨”とも言える、とてももったいないことです。

もし今後自分が国際社会で生きていこうと思った場合この「異文化を異文化として認識する感覚」というものは非常に重要になってくると思います。
また、この感覚の乏しさはある種の感性の貧しさであり、海外体験をはじめとした素晴らしい人生の刺激を感じられずにいる、人生の解像度が低くなってしまっているのではないかと、少し寂しく思っています。

どうやってその感性を磨くことができるのか、異文化を異文化としてそのままの形で(繊細に)認識し、自らに浸透させるにはどうすれば良いかご指摘を頂きたいと思いご連絡させていただきました。
お時間都合つくタイミングで構いません、またお話させてくださいませ。

それでは、また。

 

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2014-08-31@セルビア

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2014-09-25@コソボ

 

 The theme music of this post:さらば、生かねばならぬ by 野狐禅